織田信長の正室として有名な帰蝶。しかし信長に嫁ぐ以前、美濃の守護、土岐頼純(ときよりずみ)と結婚していたと言われています。
諸説ありのようですが、大河ドラマ麒麟がくるの中では、この話が採用されていました。
そこで、今回は帰蝶の最初の夫だったと言われている、土岐頼純について書いていこうと思います。
目次
土岐頼純とはこんな人物
こちらでは、下記の項目について書いていきます。
⒈斉藤道三とは敵同士だった。
2.土岐頼純と帰蝶が結婚
斉藤道三とは敵同士だった。
土岐頼純は、大永4年(1524年)、土岐頼武の嫡男として誕生。天皇家の血を引く土岐家は、家柄も良く、美濃の守護を務めていました。
父、頼武とその弟で頼純の叔父、頼芸(よりあき)は家督をめぐり対立。その頃、勢力をつけた美濃のマムシこと、斉藤道三は頼芸側に味方しました。
やがて、頼武は戦に負け戦死。頼純は母方の故郷越前に身を寄せますが、再び挙兵し戦いは続いていきます。
天文15年(1546年)、ようやく講和にこぎつけた頼純と頼芸。その時の講和の条件は、頼純が美濃守護になることでした。
土岐頼純と帰蝶が結婚
道三の陰謀はすでに始まっていました。 わずか12歳の帰蝶を、頼純の元へ嫁がせ親戚関係を結びます。
こうして、頼純と帰蝶は夫婦となりました。帰蝶の初婚は、信長と同じく、道三によって決められた政略結婚だったのです。
まぁ、この時代にはあるあるな事ですけどね。
24歳で不慮の死を遂げる!
NHKの大河ドラマ麒麟がくるでは、女優の木村文乃さん演じる妻木煕子。
明智光秀の正室として、その良妻ぶりは有名ですね。
光秀もこの時代には珍しく側室を持たず、生涯煕子だけを愛したと言われています。
今回は、光秀と煕子に関する逸話を紹介していきましょう。
光秀と煕子のほのぼのエピソード
ここでは、二つの逸話を取り上げました。
⒈容姿なんて関係ない!心の美しさが大切
⒉髪を売って光秀を支えた献身な妻
⒈容姿なんて関係ない!心の美しさが大切
煕子は、光秀に嫁ぐ以前天然痘を患い、顔に痕が残ってしまいます。
煕子の父親は光秀に申し訳ないと、煕子にそっくりだった妹を身代わりとして嫁がせようとしました。
ところが、光秀は煕子ではないことを見破り、「容姿なんて関係ない、心の美しさが大切」と煕子を嫁に迎えたそうです。
⒉髪を売って光秀を支えた献身な妻
光秀がまだ仕官先を探していた頃、越前国(現在の福井県)の大名、朝倉家との連歌会のチャンスが巡ってきます。
しかし、その連歌会を開く資金がありません。
そこで煕子は、自分の髪を売りお金を調達。光秀は酒や魚をふるまって、連歌会は大成功したそうです。
理想の夫婦だった光秀と煕子
とても仲が良かったと言われる光秀と煕子。
そんな二人だからこそ、このような微笑ましい逸話が生まれたのでしょう。
出世する前から献身的に光秀を支え、美しく賢い女性だったそうです。
光秀はそんな煕子に頭が上がらず、一生涯側室を持たなかったとか。まさに戦国一のおしどり夫婦だったのかもしれませんね。
帰蝶、又は濃姫と言えば、織田信長の正室です。しかし、信長は二度目の結婚相手でした。
15歳で嫁いだと言われていますから、初婚は何歳の時だったのでしょうか。そして気になる相手はどんな人物?
前半は、帰蝶(濃姫)の生い立ちについて見ていきましょう。
こちらでは全て、帰蝶の名で統一させていただきます。
帰蝶の簡単な生い立ち
ここでは下記の項目をご紹介します。
⒈父親は美濃のマムシこと斎藤道三!
2.帰蝶の史料はあまり残っていない
父親は美濃のマムシこと斎藤道三!
帰蝶は斎藤道三の娘として、美濃(現在の岐阜県)に誕生、別名は濃姫。
生誕は諸説ありですが、1535年(天文4年)生まれとも。
明智光秀とはいとこ同士の記述がありますが、光秀の出生も謎が多いためこちらもはっきりとは分かりません。
そして、帰蝶と光秀は恋仲だったとも言われています。
帰蝶の史料はあまり残っていない
帰蝶の史料は、あまり残っていないため、詳しい生い立ちなどは、創作で書かれることが多いようです。
15歳で、織田信長と結婚。夫婦仲についてもはっきりしていません。 二人の間に子供は授かりませんでした。
死没についても、本能寺の変で、信長と一緒に討死、又は離縁した、もしくは78歳まで生存していたなど様々です。
帰蝶は気が強く美しい女性だった?
ドラマなどに出てくる帰蝶のイメージは、気が強くて美人。
実際には信長の正室になるくらいの人ですから、気丈で賢い女性だったのではないでしょうか。
次回は、帰蝶の結婚について紹介していきます。