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坂下門外の変はなぜ起きたのか?その経緯について簡単にご紹介!

安政7年(1860年)、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、その僅か2年後に事件は起こりました。

老中・安藤信正が襲撃された「坂下門外の変」です。

今回は、坂下門外の変が起こった経緯について簡単に解説していきましょう。

公武合体を推し進めようとした幕府

井伊直弼が暗殺され、弱体化しつつあった幕府。

こうして進められたのが「公武合体」です。

公武合体とは?

公=公家すなわち朝廷。武=武家は幕府の意味。つまり、朝廷と幕府が手を結んで、政治を行うと言うことです。

ところが、これに意を唱えた者たちがいました。儒学者の大橋訥庵(おおはしとつあん)です。

訥庵は江戸で思誠塾を開講。この塾に、渋沢栄一尾高長七郎なども入門していました。

訥庵は、過激な尊王攘夷思想を持つ人物で、青天を衝けの中でも、かなり濃いキャラて登場しています。

徳川家茂と皇女和宮(かずのみや)の結婚

老中・安藤信正は、公武合体を推し進めるため、将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹「和宮」との政略結婚を断行。

この結婚に、過激派の尊王攘夷の志士たちが反発しました。

反発する理由として、幕府は政略結婚により天皇の攘夷を妨げる。

更には、外国嫌いで有名な孝明天皇は、開国を唱える幕府とは真逆の考え。

そのため、孝明天皇を廃位(天皇の位を下りること)させ、新たな天皇を置くのではないか。

このような事が、尊王攘夷派の志士たちの火種になり、これらを実行した安藤信正を暗殺しようと動き始めます。

坂下門外の変が起きる

ところが、大橋訥庵が徳川慶喜に送った密書によって、事件の全貌が幕府に知られることとなりました。

こうして、首謀者となった訥庵や関係者らが捕縛されてしまいます。

そして、文久2年(1862年)、江戸城坂下門外にて、逃げ延びた水戸の脱藩浪士らは、安藤信正の一行を襲撃。

信正は背中に傷を負いながら、江戸城に逃げ込み命は無事でした。

桜田門外の変以降、警備が強化され50人程の擁護兵がいる中、僅か6名で決行に及んだ水戸の浪士全員が命をおとします。

一説では、薩摩藩の桂小五郎などにも声をかけていたそうですが、この時薩摩藩の中で公武合体に賛成する声も多かったことから、実現しなかったそうです。

そして、兄の尾高惇忠の説得によりこの計画に参加しなかった尾高長七郎。

しかし、関係者として追われる立場となった長七郎や、襲撃された安藤信正は、坂下門外の変以降、大きく人生が変わっていきます。

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