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【1】646年に発令された改新の詔•公地公民制・班田収授法とは?

645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した、乙巳の変(いっしのへん)が起こります。

以後、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、弟である軽皇子(かるのおうじ)に譲位(天皇の位を譲る)し、軽皇子は、第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)に就任。

中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちおさ)の位につきました。

646年、孝徳天皇が改新の詔(かいしんのみことのり)を発令。 その後、日本はどのように変化していったのでしょうか。

改新の詔(かいしんのみことのり)とは?

646年、孝徳天皇により改新の詔が発令されます。※詔とは天皇からの命令や発表など。

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

1.公地公民制(こうちこうみんせい)

2.班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

1.公地公民制(こうちこうみんせい)

公地公民制とは、日本にある土地、日本に住んでいる民(人)を天皇のものにすること

以前は、天皇や豪族が土地や民を支配していました。

それを全て天皇が所有することで、中央集権国家(※天皇中心の政治)を目指します。

2.班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

口分田(くぶんでん※耕すための田んぼ)

口分田を戸籍に基づいて、6歳以上の男女に分け与える。(※女子は男子の3分の2の面積)

戸籍は6年に一度改正。そのため、6年に1度しか口分田は与えられない。

本人が亡くなると口分田は国に変換する

面積は、(たん)で計算。1段が360歩(約360歩分歩いた距離)。

男子は2段(720歩)、女子は男子の3分の2(480歩)の割り当てが貰える。

農民には不評だった!

今回ご紹介した、公地公民制と班田収授法。実際は口分田の不足、又は国に変換する仕組みにやる気をなくす民が続出。

そして、後に別の土地制度へと変わっていきました。 次回は税の仕組みなどを紹介していきます。

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