江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還。そして、明治政府が発足。徳川慶喜から独立した栄一は、大隈重信に誘われて大蔵省に入社します。
前回のあらすじ⇒【4】2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?
しかし、僅か2年後に退社。その後、次々と色々な事業に携わっていきました。
今回は、そんな実業家としての渋沢栄一を見ていきましょう。
実業家としての才能を発揮!
大蔵省を辞めた栄一は、実業家として歩み始めます。
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)銀行を設立する。
(2)多くの会社設立に携わる
(1)銀行を設立する。
大蔵省を退職した2ヶ月後、1873年(明治6年)、栄一は日本で初めての銀行、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立。栄一が34歳の時でした。
新しい仕組みに戸惑いながらも、幾度となく倒産の危機を乗り越えます。そして、全国を周りながら日本の産業について訴えました。
この原動力が、現在の日本の源となっているのです。
(2)多くの会社設立に携わる
実業家となった栄一は、帝国ホテル、王子製紙、サッポロビールなど、500社以上の会社設立に尽力します。
そして、一橋大学・日本女子大学・早稲田大学・同志社大学などの学校設立にも貢献しました。
更に、経済面だけではなく、医療や福祉関係にも力を入れ、日本の困った人々を救う手助けも行っています。
日本の基盤を造った渋沢栄一
資本主義の父、実業家の父と呼ばれるように、栄一は多方面で活躍しました。
70歳を過ぎて、アメリカを訪問。日米関係の親善に務め、その功績から二度もノーベル平和賞にノミネートされています。
そんな渋沢栄一の有名なモットーは「論語と算盤」。今の日本があるのは、まさに、栄一が日本を変えようと尽力してくれたおかげですね。