708年、第43代元明天皇が即位していた頃、武蔵国(現在の埼玉県秩父市)で銅が発見されます。この銅から、和同開珎と言う貨幣が造られました。
元明天皇は、この喜ばしいニュースに年号を和銅に改名。そして、和同開珎を日本に流通させようと考えたのです。
今回は、日本初の流通貨幣、和同開珎について説明していきましょう。
和同開珎が鋳造された経緯
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)物々交換が主流だった。
(2)シルクロード商人たちの活躍
(1)物々交換が主流だった。
当時の日本は、物々交換が主流の時代。しかし、物々交換と言うのは、決して自分の欲しい物が手に入るわけではありません。
交渉する相手が、自分の買いたい物を持っていないと、満足な買い物ができないのです。
そんな時に飛び込んできた銅発見のニュース。
銅のような鉱物は、国の財力となり、様々な用途で使用できるので、この発見は大変喜ばしいことでした。
元明天皇は、この銅で和同開珎を鋳造します。
(2)シルクロード商人たちの活躍
元明天皇が治めていた時代は、唐やイスラム帝国など、華やかな文化が栄えていました。
これを支えていたのが、シルクロードの商人たちです。
長い旅を続ける商人たちは、穴のあいた貨幣に紐などを通し持ち歩くのが主流。
日本のような物々交換では、価値の有り難みもなく、適切な買い物もできない。
しかし、統一した貨幣なら、好きな物が買える。こうして、元明天皇は、和同開珎を全国に流通させようと考えたのです。
年号を和銅に改める!
和同開珎を鋳造し、周辺の諸外国に引けを取らないよう、価値の統一を考えた元明天皇。
このめでたい発見に年号を「和銅」と改めます。
しかし、この和同開珎は思うように浸透しませんでした。 次回は、和同開珎のその後についてまとめていきます。
708年、日本初となる流通貨幣「和同開珎」が鋳造されます。 当時は、シルクロード商人の影響で、アジアは華やかな文化が栄えていました。
商人たちが用いる貨幣により、多くの品物が行き交いしていたのです。 しかし、日本で和同開珎が定着することはありませんでした。
今回は、和同開珎の鋳造後について解説します。
前回のあらすじ⇒(1)奈良時代に誕生した和同開珎(わどうかいちん(ほう)てどんな貨幣?
貨幣になじめない人々
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1) 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を発令
(2) 万年通宝(まんねんつうほう)の発行
(1) 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を発令
当時の日本は物々交換で品物を買う時代。和同開珎のような、丸い銅のかたまりにお金の価値を見いだせず、人々は困惑していました。
そこで、元明天皇は和同開珎を普及させるため、蓄銭叙位令を発令します。 ※ 蓄銭叙位令とは、和同開珎を多く蓄えた者に官位を与えること。
出世のためならと、貯蓄する者は増えますが、肝心の流通が途絶えてしまいます。
後に、 蓄銭叙位令は廃止となりました。
(2) 万年通宝(まんねんつうほう)の発行
その後、和同開珎で役人の給料を支払うなど、色々な策が試されました。
和同開珎の質も良くなかったことで、偽物も出回り始めます。 そして、760年新たに「万年通宝」を発行。
しかし、見た目や重さなどが、和同開珎と類似しており、混乱をまねく原因となってしまいます。
そして、不評のまま、5年後には製造が中止になりました。
和同開珎のまとめ
後に、和同開珎、万年通宝を含めた皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼ばれる12種類の銅銭が鋳造されます。
しかし、958年(天徳2年)、朝廷の弱体化もあり乾元大宝を最後に銅銭は発行されなくなりました。
683年、天武天皇によって発行された富本銭(ふほんせん)が、日本最古の貨幣と言われています。
しかし、これらが流通していたかは不明なため、和同開珎が日本最古の流通貨幣と呼ばれるようになりました。
お金の価値を人々に理解してもらうことは、当時とても大変なことだったようです。
多くの観光客で賑わう東大寺の大仏。752年、奈良の平城京に、第45代聖武天皇の命により建立されました。
「おなご(752)に似てる優しい大仏」そんな語呂合わせも耳にします。 今回は、東大寺の大仏が建てられた経緯について、簡単にご紹介しましょう。
日本は多くの災難に見舞われていた!
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)天然痘が大流行
(2)貴族同士の争いが頻繁に起きる
(1)天然痘が大流行
聖武天皇が即位していた時代は、地震や干ばつなどの被害が相次いでいました。米が育たず、飢餓に苦しむ人々が大勢いたのです。
更に天然痘(感染症)が大流行。しかもこの時代は、特効薬がありません。天然痘はたくさんの人々の命を奪っていきました。
聖武天皇の息子も僅か1歳で亡くなってしまいます。
(2)豪族同士の争いが頻繁に起きる
天災に加え、聖武天皇に仕えていた橘諸兄(たちばなもろえ)に不満を持った藤原氏が反乱を起こすなど、豪族同士の争いが激化(藤原広嗣ふじわらひろつぐの乱)。
災い続きに悩んだ聖武天皇は、今住んでいる平城京から遷都(都を移す事)することを決意しました。
恭仁京(くにきょう・現在の京都府木津川市)、難波宮(現在の大阪市)、紫香楽宮(しがらきのみや・現在の滋賀県甲賀市)と次々に都を移します。
しかし、どの都に行っても長くは続きません。結局は、元の平城京に戻ることになりました。
仏様にすがる!
聖武天皇の力を持ってしても、世の中を変えることは出来ませんでした。こうなったら、仏にすがるしか道はない。
平城京に大仏を造ろう!こうして、当時信頼の厚かった僧侶、行基(ぎょうき)の協力のもと752年、東大寺の大仏が完成したのです。