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遣隋使はなぜ派遣されたのか?その経緯と目的について簡単に解説!

第33代推古天皇が即位していた時代。 隣国では、中国を統一した隋が大国となり、日本は遅れをとっていました。

 推古天皇の摂政となり、ともに政治を担っていた厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を派遣します。

(※遣隋使とは、日本から隋に派遣された使節団のこと)

今回は、遣隋使の目的と、その経緯について解説していきましょう。

隋が中国を統一し大帝国となる

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)小野妹子を派遣する

(2)煬帝が激怒した日本の国書

(1)小野妹子を派遣する

607年、2回目の遣隋使として小野妹子が派遣されます600年に1度派遣されていますが、日本書紀には記載されていません。

この時、隋に送った国書が有名です。 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙きや」

この国書を読んだ隋の皇帝、煬帝(ようだい)は激怒しました。

(2)煬帝が激怒した日本の国書

日本から送られた国書に対し、煬帝が怒った原因とは?

その1、「日出る処の天子、日没する処の天子」日本がこれから上昇する国に対し、隋は沈んでいく国と解釈した。
その2、天子と言う言葉は、隋の皇帝だけに許されるもの。日本は隋より下の立場であるのに、対等な物言いである。

厩戸の皇子の策略

煬帝は日本の国書に対し怒りを震わせます。しかし、当時は高句麗と戦乱中。日本を敵にまわせば、高句麗と日本が手を組むかもしれない。

そんな状況をいち早く悟っていたのが、厩戸の皇子でした。日本は隋と対等な国であり、独立国家であるとアピールしたのです。

厩戸の皇子の先を見越した策略に、隋の皇帝も許すしかなかったのでしょう。

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