鳴くようぐいす平安京!都が平安京に移された経緯を簡単にご紹介!

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鳴くよ(794)うぐいす平安京と教科書で覚えた方も多いのでは?

第50代桓武天皇は、784年に都を平城京(現在の奈良県)から長岡京(現在の京都府長岡京市)へ。

そして、その僅か10年後の794年、長岡京から平安京(現在の京都府京都市)へと移しました。このように、都が移ることを遷都(せんと)と言います。

しかし、桓武天皇は、どうして2回も遷都を行ったのでしょうか。ここでは、その経緯について簡単にまとめてみました。

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様々な問題を抱えていた平城京

ここでは、都が移った背景について説明していきます。

平城京から長岡京へ
長岡京から平安京へ

⒈平城京から長岡京へ

この頃の日本は鎮護国家(ちんごこっか)と言う、仏教の力で国を守る制度がありました。そのため、寺院や僧侶たちが力を付け、政治に口出しするようになります。

有力な貴族による権力争いも起こり、天皇中心の政治を行いたい桓武天皇には悩みの種でした。

そして、平城京に川がなかったことで、汚染問題の深刻化…下水処理も不可能に。

桓武天皇はこのような乱れた状況を一新させるため、784年、平城京から長岡京へと都を移します

⒉長岡京から平安京へ

しかし、遷都のリーダーであった桓武天皇の部下、藤原種継の暗殺
【※遷都(せんと):都が移ること】

そして、その嫌疑が桓武天皇の弟、早良(さわら)親王に向けられ、無罪を主張した早良親王は断食を行い他界。

その後、相次いで桓武天皇の母、妻、息子が亡くなってしまいます。この不幸な出来事が、早良親王の祟りなのでは?と噂になりました。

当時はこのような怨念がとても恐れられ、桓武天皇は再び遷都を決意。794年、長岡京から平安京へと都を移したのです。

その後400年続いた平安時代

僅か10年の間に二度の遷都が行われた背景には、政治の立て直しや災い、環境問題など多くの問題がありました。

その後400年以上続いていく平安時代。桓武天皇は、まさにその基盤を作り上げた人物と言えるでしょう。

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