慶長5年(1600年)、徳川幕府率いる東軍vs石田三成率いる西軍の戦い、関ヶ原の合戦。
僅か数時間で決着がつき、東軍勝利で幕を閉じます。
この時、西軍で戦った島津義弘を大将とする島津軍は「捨てがまり」と言う戦法を使い、敵中突破を行いました。
これが有名な島津の退き口(のきぐち)です。今回は、島津軍がとった作戦、捨てがまりについて紹介していきましょう。
島津家の団結力が凄い!
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)徳川本陣めがけ敵中突破
(2)捨てがまり戦法とは?
(1)徳川本陣めがけ敵中突破
実は東軍に味方をするはずだった島津軍。 しかし、ちょっとした行き違いから西軍につくはめに‥。
ところが、小早川秀秋の裏切りなどから西軍の敗走が決定的となっていきました。
後方に陣を構えていた島津軍の周辺は敵ばかり。珍しく弱きになり、諦めかけていた義弘を甥の島津豊久が励まし、撤退を開始したのです。
意地を見せた島津軍は、逃げることはせず、徳川家康の本陣めがけて敵中突破を強行しました。
この時の島津軍の兵は1500程だったと言われています(諸説あり)
(2)捨てがまり戦法とは?
徳川家康の本陣めがけ、強行突破を行なった島津軍は、捨てがまりと言う島津家特有の戦法を使います。
捨てがまりとは?最後尾に陣をとる小部隊が敵と戦い、全滅すると次の小部隊がまた戦う。
この捨てがまり戦法で、大将である島津義弘を守り続けました。しかし残念ながら島津豊久は戦死。
無事薩摩に戻れた島津軍は80人程度だと言われています。
島津家は勇猛果敢な武将が多かった
島津家と言えば、島津4兄弟が有名です。戦国時代は、兄弟間の争いなどは日常茶飯事。
しかし、島津4兄弟の絆は強く、4人それぞれが勇猛な武将でした。
特に島津義弘は、「鬼島津」の異名で知られていますね。
「さつまに暗君なし」と言う言葉のように、島津家には優秀な人材が多かったようです。