関ヶ原の戦いに敗れ、九度山(現在の和歌山県北部)に蟄居(ちっきょ)となっていた真田幸村。
しかし、1614年(慶長19年)、大坂冬の陣が開戦すると、豊臣軍として戦に参加。
幸村の武力を必要とした、豊臣秀頼から声がかかったのです。
今回は、大坂の陣で真田幸村が築いた出城「真田丸」について、簡単に解説していきましょう。
壮大なスケールを誇る真田丸
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)籠城策をとった豊臣軍
(2)東京ドーム約1つ分の大きさ
(1)籠城策をとった豊臣軍
大坂の陣では、淀殿が籠城を主張。しかし、幸村は野戦をするべきだと主張し、食い違う両者。
結果、淀殿の意見が優先され、籠城策がとられます。 その時、幸村は大坂城を守るため、出城を作ることを提案。
こうして、真田丸が築かれることになりました。
(2)東京ドーム約1つ分の大きさ
真田丸は大坂城の南側に築かれ、南北270メートル・東西280メートルと言う莫大な大きさの出城となりました。
この出城は、東京ドームに匹敵する大きさだとか。
幸村は、大坂城の南側は、空堀だったことで敵の侵入を防ぐことが第一と考えたのです。
取り壊された真田丸
幸村は真田丸で指揮をとり、徳川軍と応戦します。ところが、徳川家康は淀殿がいる本丸をめがけ大砲を発射。
恐怖で動揺した淀殿は、徳川軍との和睦に応じ、後に真田丸も取り壊されることとなります。
大坂夏の陣は豊臣軍の敗北で終結。幸村も49歳の生涯を終えました。
籠城戦ではなく、幸村が唱えた野戦を実行していたら、違う結果が見えていたのかもしれません。
ともあれ、壮大な真田丸は、敵方の徳川軍にダメージを与えたことは間違いないでしょう。