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(1)大坂の陣はなぜ起きたのか?豊臣と徳川が亀裂した原因について考察!

慶長19年(1614年)と、翌年1615年の2度に渡り行われた大坂の陣。

豊臣軍と徳川軍により勃発したこの戦いは、徳川軍の勝利で終結しました。

今回は、大坂の陣が起こった背景。また、豊臣と徳川の関係はどうなってしまったのか。

そのいきさつなどを前半と後半に分けて解説していきましょう。

徳川家康が江戸幕府を開く

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)豊臣秀頼と千姫が結婚

(2) 徳川秀忠に政権を譲る

豊臣秀頼と千姫が結婚

慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。

そして同年、生前に豊臣秀吉が望んでいた、秀頼と千姫(徳川秀忠の娘)との結婚が成立。

当時二人は10歳と7歳。こうして両家は親戚関係となりました。

二重の御公儀(政府)が生まれる

慶長10年(1605年)5月、家康は三男の徳川秀忠に征夷大将軍の座を譲り、自らは隠居して大御所となりました

(大御所(おおごしょ)とは、 江戸幕府において、征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍を指す尊称(ウキペディアより引用))

秀頼も同年4月、右大臣に就任。この二人の官位は同等だったことから、豊臣と徳川二つの政府体制が敷かれる形となりました。

豊臣秀頼の成長

家康は、秀頼が右大臣に昇格したことで、上洛を促し二条城での会見を希望します。

しかし、淀殿の反対で実現には至りませんでした。 そして、慶長16年(1611年)、ついに徳川家康と豊臣秀頼が京都の二条城において対面。

この時、秀頼19歳、家康は70歳。 家康は、秀頼を見て「なんと立派な若者になったものだ」と賞賛

家康は、秀頼が豊臣の後継者になる器と判断し、後に江戸幕府を脅やかす存在になると恐れたのかもしれません。

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