天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺。 明智光秀の謀反によって織田信長は自害。
信長の嫡男、織田信忠は本能寺の近く、妙覚寺に宿をとっていました。
明智光秀謀反(むほん)の一報を聞いた信忠。 本能寺は既に火の海と化し、合流を断念した信忠は、二条御所に移動。
今回は、本能寺の変で奮戦した織田信忠の最期を見ていきましょう。
二条御所で自刃した織田信忠
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)二条御所へ移動
(2)逃げずに明智勢と交戦
二条御所へ移動
妙覚寺に宿泊していた信忠は、京都所司代の村井貞勝より、明智光秀謀反の知らせを受けます。
※京都所司代とは、京都の治安維持のため信長が置いた行政機関。現代で言う警察のような役割。
本能寺までの距離は500メートル。父の救援に向かおうとする信忠に、貞勝は本能寺の状況を報告。
そして信長の京都の宿所、二条御所での籠城戦を提案します。
逃げずに明智勢と交戦
二条御所の信忠の軍勢は1500。明智勢は1万を超えていました。
信忠も自ら勇猛果敢に応戦しますが、明智勢の猛攻に敗退。
父、信長と同じく自刃を決意した信忠。享年26歳と言う若さでした。
織田家当主としてのプライド
将来有望だった織田信忠。逃げようと思えばチャンスはあったはず。
現に信忠の家臣、鎌田 新介(かまた しんすけ)は信忠自害の際に介錯(かいしゃく)を務め、その後逃げ延びたと言われています。
信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)も脱出口から逃げたと言う説もあり、信忠にもその選択肢があったのではないでしょうか。
織田家当主としてのプライド。または、用意周到な光秀からは逃げ切れないと考えたのか。
どちらにせよ、信忠が生存していれば、歴史が変化していたことは間違いありません。