小田氏治(おだうじはる)と言う武将をご存知でしょうか。
おだと言えば、ほとんどの方は織田信長を連想するでしょう。 こちらの小田は決して有名ではありません。
戦国ゲームの中では、常に最低レベルに設定されている弱小者です。
ところが、氏治は居城である小田城を奪われては取り戻す、まさに奪還武将でした。
今回は、戦国最弱の異名を持つ「小田氏治」について簡単に紹介していきます。
小田城をめぐる攻防戦
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)小田家最後の15代当主
(2)九度に渡り城を奪われる
小田家最後の15代当主
小田家は、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)の戦国大名で、鎌倉から続く関東八屋形(かんとうはちやかた)の名門の出身。
※関東八屋形とは、室町時代、関東地方において屋形号を名乗ることができた有力な大名。
父は、名君と言われた小田政治。 政治死後、家督を継承した氏治は居城である小田城をめぐり、攻防戦を繰り広げることとなります。
九度に渡り城を奪われた
氏治が小田城を奪われた回数は、約30年の間に合計9回。
さすがにこれほど城を奪還されると、諦めたくなるのが人間と言う生き物。
しかし、氏治は違いました。 先祖代々の城を取り返そうと、常に戦を仕掛けます。
そしてついたあだ名が「不死鳥」 何より、氏治の家臣たちが優秀な人材が多かったとか。
そうでなければ、8度の城奪還は無理だったかもしれませんね。
豊臣秀吉に領地を没収される
天正18年(1590年)、小田城奪還に闘志を燃やす氏治でしたが、苦戦を強いられ北条氏政に助けを求めます。
しかし、北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐により、援軍を送れる状況ではありませんでした。
そして、北条氏政は切腹。小田家は、小田原征伐に参加しなかったことなどを理由に秀吉の怒りを買ってしまいます。
その結果、領地を没収され大名としての小田家は滅亡。
先祖代々の城を守るため、幾度となく奪還を繰り返した小田氏治。
戦国最弱と言われた氏治でしたが、領民からは慕われ、氏治以外の当主には年貢を納めなかったそうです。
家臣からも領民からも見捨てられなかった氏治は、きっと魅力のある武将だったのでしょう。