尾高敦忠(あつただ(じゅんちゅう)は、渋沢栄一の妻、尾高千代の兄にあたる人物です。
尾高千代について⇨「青天を衝け」主人公・渋沢栄一の妻・尾高千代について簡単にご紹介!
栄一とはいとこ同士、そして義兄でもありました。 頭脳明晰で、自ら私塾を開いていた敦忠。
その生徒の一人が渋沢栄一です。 今回は、そんな尾高敦忠について簡単に紹介していきましょう。
尊王攘夷思想を掲げたた尾高敦忠
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)尊王攘夷に目覚める
(2)戊辰戦争で敗退
尊王攘夷に目覚める
幼少期から学問に励み、優秀であった尾高敦忠。 17歳から自宅にて「尾高塾」を開講。
その生徒の一人に渋沢栄一がいました。
幕末の尊王攘夷の思想に影響を受け、1863年(文久3年)、栄一らと共に高崎城を乗っ取り、横浜焼き討ちを計画。
更に、長州藩と連携して倒幕を実行しようとしますが、弟の尾高長七郎の説得により断念します。
戊辰戦争で敗退
※戊辰戦争とは、慶応4年(1868年)、明治新政府を立ち上げた、薩摩・長州・土佐藩らが中心となった明治新政府軍と旧幕府軍の戦い。
結果、明治新政府軍の勝利で終結。旧幕府軍で振武隊のメンバーとして戦った敦忠は、函館に移動して最後まで戦いました。
富岡製糸場の初代上長となる
敦忠は、後に大蔵省の官僚となった栄一の仲介により富岡製糸場の初代上長に就任。
富岡製糸場といえば、2014年に世界遺産に登録されています。
後に、第一国立銀行の盛岡支店・仙台支店の支配人も務めました。
現在、音楽家として活動している尾高敦忠(あつただ)さんは、同名で敦忠は曾祖父にあたるそうです。
渋沢栄一に学問を教えた人物でもあり、共に尊王攘夷を掲げた同士でもある敦忠。
敦忠にとって栄一は、一生涯苦楽を共にした仲間であったことは間違いありません。