前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・日本初の西洋砲術を取り入れた「高島秋帆」について解説!
天保5年(1834年)、西洋の砲術を取り入れた「高島流砲術」が完成。
高島秋帆(しゅうはん)は、幕府に対して高島流砲術を認めてもらおうと動き出します。
今回は、高島流砲術完成後、どのようなことが起こったのか簡単に紹介していきましょう。
アヘン戦争がきっかけとなる
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1) 「天保上書」を書き上げ提出
(2) 徳丸ヶ原で演習を行う
「天保上書」を書き上げ提出
天保11年(1840年)、清とイギリスの間に起こったアヘン戦争で清が敗北。
大国の清が負けたことで、日本も清の二の舞になると危機感を覚えた秋帆。
今の日本の砲術は、外国に比べ全く歯が立たない。
これから予想される、外国からの侵略に対し、日本は新しく外国砲術を把握するべき。
との意見書を長崎奉行・田口加賀守に提出。
この意見書が、幕府の老中・水野忠邦の目にとまります。
徳丸ヶ原で演習を行う
天保12年(1841年)武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)において、西洋砲術の公開演習が行われました。
水野忠邦や大名関係者など総勢100名が参加し、一発の不発もなく無事に大砲打ち上げに成功。
幕府は、秋帆の大砲を買い上げ、報酬として銀500枚を与えます。
こうして高島流砲術は、全国へと広まっていきました。
冤罪で投獄される
天保13年(1842年)秋帆とその関係者たちが長崎奉行に逮捕されます。
これは、高島流砲術に否定的な意見であった、反蘭学派の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が妬み、
秋帆たちが、密貿易をしていると嘘の訴えを行ったことが原因でした。
後に冤罪と分かり、武蔵野国岡部藩(現在の埼玉県深谷市)に幽閉されています。
青天を衝けの第一話で、子供時代の渋沢栄一と高島秋帆の出会いが描かれていました。
この先、二人がどのように関わっていくのかも見どころの一つですね。
後に釈放された秋帆は、開国を主張し幕府の砲術訓練に尽力していきます。
そして、慶応2年(1866年)69歳で逝去。早くから西洋砲術の重要性に気付き、日本を外国から守ろうとした秋帆。
現在の東京都板橋区にある高島平は、秋帆にちなんで名付けられたそうです。
青天を衝けでは、秋帆役で玉木宏さんが出演しています。
どのような秋帆を演じるのか、こちらも楽しみですね。