前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・27歳で老中首座となった切れ者阿部正弘について解説!
福山藩第7代藩主であり、27歳で江戸幕府の最高責任者となった阿部正弘。
正弘が就任した老中首座は、現在で例えるなら内閣総理大臣。
今回は、老中首座となった阿部正弘が行った「安政の改革」についてまとめました。
安政の改革を行う
ここでは、下記の2項目についてご紹介します。
(1)人材育成に力を入れる
(2)訓練機関の設置
人材育成に力を入れる
嘉永7年(1854年)、アメリカと日本の間で、日米和親条約が締結されました。
アメリカと国交を始めると言うことは、他の諸外国からも開国を求められる可能性があります。
アヘン戦争で大国であった清がイギリスに敗北。日本がこの先、外国と向き合うためには国を強くすることが必須でした。
まず正弘は人材の見直しを開始。当時の幕府は、譜代大名だけが役職に付くことができたのです。
※譜代大名とは、関ケ原合戦以前から徳川に仕えていた大名。
※外様大名とは、関ケ原合戦以降に徳川に仕えた大名。
しかし、正弘は外様でも優秀な人材がいれば、雇用し、庶民には意見箱を設置。
身分に関係なく、たくさんの人々から意見を集め、周囲の人間の話をきちんと聞きました。
訓練機関の設置
更に正弘は、対外政策の一環として、海陸に備えた訓練機関の設置を行いました。
講武所(こうぶしょ)の設立
長崎海軍伝習所の設立
39歳の若さで急死
人材育成や、訓練機関の設置など、江戸幕府の改革を行った阿部正弘。
この一連の改革を、「安政の改革」と言います。
正弘が、これまで幕府に関わりを持つことが出来なかった外様大名や、
身分に関係なく優秀な人材を雇用したことにより、
後の勝海舟などが政治に大きな影響を与えました。
しかし、正弘は39歳の若さで急死。過労が原因とも言われていますが、事実は分かりません。
正弘はかなりの肥満体で、正座が得意ではなかったとか。
しかし、人の話を聞く時はきちんと正座をして聞いていたそうです。
若くして、老中首座となり、多くの優秀な人材を発掘した阿部正弘。
彼のあまりにも早い死が本当に偲ばれます。