嘉永7年(1854年)、日本とアメリカは日米和親条約(神奈川条約)を結びます。
鎖国体制だった日本は、当時オランダや清など限られた国としか国交がありませんでした。
そこで今回は、日米和親条約が結ばれた背景について解説していきましょう。
2度に渡ってやってきたペリー代将
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)ペリーが国書を持って来航
(2)2度目の来航で日米和親条約を締結
ペリーが国書を持って来航
嘉永6年(1853年)、ペリー代将がアメリカ大統領の国書を持ち、4隻の艦船を率いて浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航。
ペリーが日本に来た目的とは?
当時アメリカは、太平洋上で捕鯨を盛んに行なっており、一時的に立ち寄れる港を探していました。
まさに日本がその場所として最適だったのです。
そこで、ペリーは日本に開国と貿易を要求。
返事を渋る幕府に対し、1年間の猶予を与え、アメリカに帰っていきました。
2度目の来航で日米和親条約を締結
しかし、その僅か9ヶ月後ペリーは再びやってきます。
江戸幕府の老中、阿部正弘は、このまま鎖国を主張し、アメリカと戦争になった場合、
日本に勝ち目がないことは分かっていました。
こうして、日本はアメリカに対し開国することを決めたのです。
嘉永7年(1854年)、日本はアメリカと日米和親条約を締結。
次回は、日米和親条約の内容について紹介していきましょう。