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(2)青天を衝けキャスト紹介・徳川斉昭・強烈キャラで頑固者・その生涯を簡単まとめ

前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・徳川斉昭・強烈キャラで頑固者・その生涯を簡単まとめ

嘉永2年(1849年)、謹慎処分を解かれた徳川斉昭は、第10代藩主となった嫡男・慶篤の後見人となり藩政に復帰。

そして、幕府とも関わるようになり、尊王攘夷派と開国派との間で、激しく対立するようになります。

今回は、斉昭の復帰後を簡潔にまとめました。

井伊直弼(いいなおすけ)と対立

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)幕政に関わる!

(2)開国派と衝突

幕政に関わる!

斉昭は、やがて日本にやってくる外国船に備え、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)らと意見交換を行いました。

更に、老中首座の阿部正弘に海防策の重要性を訴え、雄藩大名など数多くの意見を参考にするよう促します。

そして、嘉永6年(1853年)、浦賀にペリーがアメリカ大統領の国書を持って来航。

斉昭は、正弘に「海防愚存(かいぼうぐそん)」と言う意見書を提出

そして、水戸藩から大砲を運び入れ幕府に献上しました。

この功績を認めた正弘は、斉昭を「海防参与」に任命。

こうして斉昭は、幕政に携わるようになります。

開国派と衝突

第13代将軍・徳川家定が病弱だったことで、次期将軍候補として、斉昭は息子の一橋慶喜を推す一橋派を結成

対する井伊直弼は南紀派として徳川慶福(よしとみ・後の第14代将軍・徳川家茂)を擁立

後に直弼は大老となり、慶福は正式に14代将軍に就任しました

安政5年(1858年)、直弼は朝廷の許しを得ずに、アメリカと日米修好通商条約を結びます

斉昭は、これに抗議するため江戸城に無断で登城。しかし、江戸城には登城できる日が定められていました。

その掟を守らない斉昭たち一橋派は、不時登城を行ったと言う理由により、謹慎処分を申し付けられます。

永蟄居(えいちっきょ)となる

やがて、孝明天皇による戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が行われました。

※戊午の密勅とは、孝明天皇が水戸藩に幕政改革を促す勅使(命令)を出した事。

幕府より先に水戸藩に勅使が出されたことに、大老の井伊直弼が激怒。

これが後の安政の大獄に繋がっていきます

安政6年(1859年)、斉昭も水戸に永蟄居(永久に自宅で謹慎)を命じられ、翌年61歳で亡くなりました。

烈公の異名を持ち、そのカリスマ性から農民にも慕われた徳川斉昭。

女性からもモテた斉昭は、子供が男女合わせて37人もいたんだとか。

水戸に偕楽園を造り、弘道館の設立など様々な分野に貢献しました。

名君と呼ばれた斉昭は、水戸の人々に多大な影響を与えた事は間違いないでしょう。

 

 

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