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(1)青天を衝けキャスト紹介・旗本から幕臣となった平岡円四郎についてご紹介!

徳川慶喜の側用人として仕えた平岡円四郎。慶喜言わく、自分に遠慮がちな家臣はいらない。

自分が間違った行いをすれば、きちんと正してくれる部下がほしい。

こうして、白羽の矢が立ったのが平岡円四郎でした。

今回は徳川慶喜の側近として仕えた平岡円四郎について、前編と後編に分けて紹介していきましょう。

才能がありすぎた平岡円四郎

平岡円四郎は、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)きっての秀才と言われていました。

※昌平坂学問所とは、江戸幕府直轄の教学機関・施設

一橋慶喜の小姓となる

平岡円四郎は、文政5年(1822年)、旗本であった岡本忠次郎の四男として誕生。

そして、天保9年(1838年)同じ旗本の平岡文次郎に養子入りします。

子供の頃から聡明で頭が良かった円四郎。

その当時、一橋家に養子入りしていた一橋慶喜(徳川慶喜)の小姓を探していたところ、藤田東湖(徳川斉昭の側近)らが、円四郎を推薦。

円四郎は32歳にして、慶喜の小姓となりました。

※小姓とは、上司の身の回りの世話をする家臣

青天を衝けの中で、ご飯のよそい方や、髷の結い方などを、慶喜が円四郎に教えていました。

そんな慶喜の人柄に、円四郎が、「惚れた」と口走ってにやけるシーンもありましたね。

小姓と言えば、森蘭丸などのように若年層のイメージが強いですが、実際は円四郎のように、30を過ぎて小姓になるケースもあったようです。

左遷となり甲府へ

一橋慶喜に仕えた平岡円四郎は、慶喜を次期将軍候補とする一橋派として尽力します。

しかし、南紀派であった大老・井伊直弼により徳川慶福(後の徳川家茂)が第14代将軍に決定。

後に安政の大獄により、一橋派の危険人物とみなされた円四郎は、安政6年(1859年)甲府勝手小普請に格下げ。

甲府勝手小申請は、不良旗本・御家人への懲罰処分の一種で、明確な職務(役)は与えられていません。

後半へ続きます。

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