前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・幕末の四賢侯(しけんこう)松平春嶽とは?
11歳で福井藩主となった松平春嶽。16歳になり福井に入った春嶽は、藩政をスタートさせます。
そして、一橋派の徳川斉昭らと攘夷論を唱えました 。
後に、斉昭の息子「一橋慶喜」を次期将軍にしようと南紀派の井伊直弼らと対立。
やがて幕末動乱の中、松平春嶽はどのように政治に関わっていくのでしょうか。
幕末に翻弄された松平春嶽
幕末と言えば、血の気の多い人物がたくさんいました。
松平春嶽は、そんな人物たちの話を良く聞き
何とか解決できないかと頭を悩ませます。
安政の大獄で蟄居謹慎処分
安政5年(1858年)、井伊直弼が天皇の許可を得ず「日米修好通商条約」を締結。
春嶽や斉昭ら一橋派が、押しかけ登城で指定日以外に登城し、直弼は安政の大獄で一橋派を弾圧。
隠居謹慎処分となった春嶽は、家督を松平茂昭(まつだいらもちあき)に譲ると、江戸・霊岸邸にて蟄居。
橋本左内は斬首。 後に、桜田門外ノ変で井伊直弼は暗殺され、文久2年(1862)、春嶽は幕政へと復帰しました。
文久の改革を行う
薩摩の島津久光は、多勢の軍と大砲などを用いて京に上洛。
そして朝廷に、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に就任するように要求。
※ 政事総裁職は、幕末に新設された江戸幕府三要職の一つ。
そして、京都守護職の設置、参勤交代の緩和。
更に、公武合体(朝廷と幕府が共同で政治を行うこと)を進めようとしました。
ところが、慶喜との意見の食い違いから、政事総裁職を辞任。
その後、薩長同盟が結ばれ、倒幕派の勢いはますます大きくなります。
政権引退後は執筆活動に打ち込む。
人の話しを良く聞き、子供の頃から賢く聡明だった松平春嶽。
最終的には公武合体を推進しようとするも、敢えなく失敗。
幕政を何とか取りまとめようと努力した春嶽でしたが、様々な意見の相違により上手くいきませんでした。
明治維新後は、民部卿・大蔵卿などを歴任。 明治と言う元号は、春嶽が考案したそうです。
そして、明治3年(1870年)に政界から引退。 引退後は、「逸事史補(いつじしほ)」、「幕儀参考などを執筆。
明治23年(1890)年、63歳にて亡くなりました。
幕末の四賢侯と呼ばれ、 幼少の頃より、賢く頭脳明晰だった春嶽。
幕末と言う動乱の中、周囲に翻弄されながらの人生をどのように感じていたのでしょうか。