前回のあらすじ⇒(1)青天を衝けキャスト紹介・尊王攘夷に生きた男・藤田東湖についてご紹介!
幕府から謹慎処分を言い渡された徳川斉昭。藤田東湖も、江戸小石川藩邸(現在の東京都文京区)の一室に幽閉されます。
東湖が39歳のときでした。 翌年、小梅村の下屋敷(東京都墨田区向島)に転居。
42歳で水戸城下横竹隈(よこたけくま)の屋敷にて蟄居処分となります。
徳川斉昭の側用人に復帰
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)正気の歌を執筆
(2)海防問題に取り組む
正気の歌を執筆
東湖が幽閉されたのは3畳ほどの狭い小部屋。荷物を置くと、自由に動けるスペースは1畳分ほど。
今のような冷暖房完備もありません。そんな地獄のような幽閉生活を送ることになった東湖。
しかし、東湖はそのような環境の中で執筆を始めます。
そして、完成したのが「正気の歌」でした。
正気の歌は、元々中国南宋の文天祥(ぶんてんしょう)と言う忠臣が書いた漢詩です。
東湖は、自作で「正気の歌」を書き下ろします。
この正気の歌が、後に幕末の志士たちの原動力となっていきました。
海防問題に取り組む
約7年に渡る謹慎処分が解け、自由の身となった東湖は47歳になっていました。
翌年、ペリーが浦賀に来航すると、幕府は斉昭を海防参与に任命し、東湖も海防掛(かいぼうがかり)を命じられます。
※海防掛とは、海岸の防御を目的として設置された江戸幕府の職名 。
嘉永6年(1854年)、斉昭が幕府の参与となり、東湖も側用人に復帰。
そして開国派の井伊直弼らと対立する斉昭に従事し、内政や外政に携わっていきます。
安政の大地震で亡くなる
安政2年(1855年)、江戸の周辺を襲った大地震が発生(安政の大地震)
死者は1万人以上と言われ、東湖も母親をかばい、鴨居の下敷きとなって亡くなりました(享年50歳)
徳川斉昭と共に尊王攘夷を支持し、水戸藩士だけでなく、西郷隆盛や吉田松陰などにも影響を与えたと言われる藤田東湖。
隆盛は、東湖との出会いに感激し文書に残すほどでした。
青天を衝けでは、俳優の渡辺いっけいさんが演じています。
東湖はまさに、水戸学を通じて尊王攘夷を広めた第一人者と言えるでしょう。