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豊臣秀吉が発令したバテレン追放令について簡単まとめ!その内容とは?

1587年(天正15年)、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布しました。 バテレンとは、キリスト教の布教活動を行なっていた「宣教師」のこと。

「バテレンは20日以内に国外に退去せよ」との命令です。 秀吉は、主君であった織田信長の意を組んで、キリスト教を認めていました。

では、何故このような発令を出したのでしょうか?今回は、バテレン追放令について簡単に解説していきます。

 

キリスト教信者の増加

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)長崎がイエズス会に寄進されていた

(2)挑発的な宣教師に怒りを覚える

 

(1)長崎がイエズス会に寄進されていた

長崎の戦国大名であり、日本初のキリシタン大名とも言われた大村純忠(おおむらすみただ)は、イエズス会に長崎の土地を寄進。

それを知った豊臣秀吉は、自分の許可のない勝手な振る舞いに驚きました。

しかも、キリシタンたちが神社や仏閣を破壊。

更にはポルトガル人が日本人を誘拐して、奴隷として海外に売り飛ばしているなどの悪い噂を耳にします。

秀吉は、宣教師によって改宗された領民が、一揆を起こすのではないかと心配しました。

(2)挑発的な宣教師に怒りを覚える

秀吉は、イエズス会の準管区長、ガスパール・コエリョを召喚し問いただします。

するとコエリョは、挑発的な態度で、自分はスペインの戦隊を意のままに操ることができると反論

秀吉は、武力で日本が征服され、キリシタンが奮起するなどの危機的状況を懸念しました。

このような経緯のもと、1587年(天正15年)バテレン追放令が発布されたのです。

 

あまり効果が得られなかったバテレン追放令

当時は南蛮貿易が盛んな時代。バテレン追放令の発布で、宣教師は追放となりますが、貿易は自由に外国人の出入りが認められていました。

ポルトガルやスペインなどでは、宣教師=商人が主流。こうして、自分は商人だと言う理由で宣教師は対抗します。

ところが、貿易で金儲けするために、これを黙認する大名もいました。

このような事から、結果的にはあまり意味のない発令に終わったようです。

 

 

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