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(1)長篠の戦いで磔の刑に処された悲劇の英雄・鳥居強右衛門とは?

天正3年(1575年)、武田軍vs織田•徳川連合軍が激突した長篠の戦い。

この戦いで、最も有名な足軽と言われた「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」

歴史好きの方には良く知られていますが、この強右衛門、実は仲間を助けるために、自らの命を犠牲にした英雄なのです。

今回は、そんな鳥居強右衛門について二回に分けてご紹介します。

長篠城が落城寸前!

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1元武田家臣・ 奥平貞昌に仕える

(2)長篠城に籠城

(1)元武田家臣・ 奥平貞昌に仕える

奥平貞昌は、元は武田の傘下に属していました。しかし、武田信玄亡き後、徳川家康に寝返り、勝頼の怒りを買うことになります。

家康は、貞昌が味方になってくれる条件として、娘の亀姫との結婚を約束。

既に既婚者であった貞昌は、正室のおふうと離縁。おふうは武田の人質となっていました。

しかし、貞昌の裏切りにより、おふうは見せしめのために処刑されています。

鳥居強右衛門の、長篠の戦い以前の詳細は良く分かっていません。貞昌の陪臣(家臣の家臣)だったとも言われています。

(2)長篠城に籠城

奥平貞昌は、徳川家康から任せられた長篠城を500の兵で守っていました。

そこに武田軍が1万5千の兵で襲撃。火矢が貯蔵庫に命中し、兵糧が燃える大惨事に。

籠城を続けていた奥平の兵士たちでしたが、兵糧が尽きるのも時間の問題でした。

そこで、貞昌は岡崎城にいる家康に援軍要請を決意。

しかし、長篠城周辺は武田の兵で身動きが取れません。

そこで、岡崎城にいる家康の伝言役として、鳥居強右衛門が選ばれたのです。

一回目のまとめ

鳥居強右衛門が注目されたのは、この長篠の戦いが最初で最後でした。

彼の勇気ある行動が、この戦いを勝利に導いたと言っても過言ではありません。

次回は、本題である鳥居強右衛門の活躍について見ていきましょう。

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