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2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?

2021年の大河ドラマと言えば、渋沢栄一さんを主人公とした「青天を衝け」。

資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一の生涯を、人気若手俳優の吉沢亮さんが演じることで、注目を集めていますね。

しかし、渋沢栄一って何をした人なの?と以外と知られていないのも事実。そこで今回は、渋沢栄一について簡単にご紹介します。

まず初めは、少年時代の栄一について、簡単にまとめました。

農家の子として生まれる

ここでは、下記について紹介します。

(1)裕福な家庭で育つ

(2)身分制度に疑問を持つ

(1)裕福な家庭で育つ

渋沢栄一は、江戸時代末期の1840年(天保11年)、武蔵国血洗島(ちあらいじま)村、現在の埼玉県深谷市に誕生します。

渋沢家は、農業以外に染料の藍玉づくりや、養蚕業などを行っており、比較的裕福な暮らしをしていました。

栄一は、本をたくさん与えられ、剣術も学ぶなど、幼少の頃から恵まれた環境で育ちます。

14歳で藍の買い付けを任されるなど、当時から一歩抜き出た才能を身につけていました。

(2)身分制度に疑問を持つ

栄一が17歳の時、病気の父の代わりに役所に出向くと、代官に500両の御用金(ごようきん)を申し付けられます。

※御用金とは、江戸時代に幕府が財政難を補うため、農民や商人などに献金させるお金

栄一は、その時の代官の偉そうな態度に怒りを覚えました。

その場では返事をせずに持ち帰った栄一でしたが、父は幕府に歯向かう事になると500両を支払います。

名目上貸付とは言っても、このお金が返金されることはほとんどありませんでした。

日本を変えようと動き出す!

年貢も納め、その上に御用金まで支払う、そんな政府を甘んじている江戸幕府がおかしい。

何より武士の家に生まれただけで、偉そうにする代官に怒りを覚えます。

こんな身分制度は間違っている。こうして、栄一は日本を変えようと自ら動き始めました。

次回は、栄一の青年時代についてご紹介します。

 
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」 【1】では渋沢栄一の少年時代について紹介しました。

前回のあらすじ⇨【1】2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?

17歳の時に、身分制度に疑問を持った栄一は、後に尊王攘夷(そんのうじょうい※天皇を敬い支持すること)思想を掲げ、倒幕を目指すようになります。

今回は、渋沢栄一の青年時代について見ていきましょう。

破天荒な青年時代

若い頃は、気性が荒く間違ったことが大嫌いだった栄一。そして、自ら倒幕仲間を集め、無謀な計画を実行しようとします。

ここでは、下記のことについてまとめました。

(1)横浜焼き討ち計画

(2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える

 

(1)横浜焼き討ち計画

栄一が19歳の時、従兄弟の尾高敦忠(おだかじんちゅう)から、尊王攘夷や倒幕の話を聞かされます。

共感した栄一は自ら仲間を集め、文久3年(1863年)、群馬の高崎城を乗っ取り、武器などを奪還。外国人が多く住む横浜の町を焼き討ちにしようと考えました。

しかし、敦忠の弟、尾高長七郎の説得により計画を断念。幕府に追われた栄一は、京都へと逃亡を図ります。

(2)一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える

京都へ逃れた栄一は、以前より親交のあった平岡円四郎の紹介で、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えます。円四郎は慶喜の側近を務める人物でした。

そして慶喜は、第15代・江戸幕府最後の将軍に就任。尊王攘夷を掲げていた栄一の幕臣人生が始まろうとしていました。

青年期のまとめ

若い頃、日本を変えたい一心で倒幕に命をかけていた栄一。しかし、自分が幕府の人間になるなんて考えもしなかったでしょう。

そして、徳川慶喜の家臣となった栄一は、新たな才能を発揮していきます。

次回は、幕臣となった渋沢栄一について紹介していきましょう。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」【2】では、渋沢栄一の青年期について紹介しました。

前回のあらすじ⇨【2】2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?

一橋慶喜(徳川慶喜)が、第15代将軍の座につくと栄一も慶喜に従軍し、倒幕派と戦うことになります。

かつては倒幕側の人間だった栄一。そんな栄一の心の内は複雑でした。 今回は、徳川慶喜の家臣となった、渋沢栄一のその後を見ていきましょう。

外国文化に影響を受ける

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)緊迫する倒幕派vs尊王攘夷派

(2)パリ万博に参加

(1)緊迫する倒幕派vs尊王攘夷派

渋沢栄一は、徳川慶喜に仕える以前、尊王攘夷派として、外国との交流には反対の立場でした。

倒幕に命をかけていた栄一でしたが、日本が軍事力では外国に勝てないことも理解していたのです。

しかし、皮肉にも倒幕派と尊王攘夷派の争いは未だに緊迫状態が続いていました。

かつての仲間を裏切ってしまった・・複雑な思いを抱えながらも、栄一は、徳川慶喜の家臣として、前に進もうと決意します。

(2)パリ万博に参加

1867年、パリで開かれた万国博覧会に日本も招致されます。栄一は徳川慶喜の弟、徳川昭武と共に使節団としてパリに渡りました。

この旅の会計役を任されていた栄一は、フランスの銀行家、ポール・フリュリ・エラールに、銀行と株式会社について教わります

この仕組みを日本に取り入れることはできないだろうか・・栄一は、フランスの近代化に驚きを隠せませんでした。

パリで多くのことを学ぶ

パリ万博に参加した栄一は、近代化しているパリの街並みに圧倒されます。外観だけでなく、フランスの経済も、日本とは比べられないほど発達していたのです。

その頃、明治政府から栄一に緊急の帰国命令が下ります。栄一がパリで外国文化にふれていた頃、日本では、大政奉還(政権を天皇に返上すること)が行われ、慶喜は将軍の座を退いていました。

次回は、帰国後の栄一についてまとめていきます。

 

前回は、渋沢栄一がパリ万博に使節団として派遣されたことについてまとめました。

前回のあらすじ⇨【3】2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?

栄一は2年ぶりに日本へ帰国。政権は徳川幕府から、明治政府へと移行され、徳川慶喜は駿府(現在の静岡県)で謹慎中の身でした。

今回は、帰国した栄一のその後についてまとめていきます。

徳川慶喜から独立して実業家に!

ここでは下記の2項目についてまとめました。

(1)商法会所を設立

(2)大蔵省の官僚となる

(1)商法会所を設立

駿府の徳川慶喜に面会した栄一は、慶喜から独立を勧められます。そして、フランスで学んだ銀行の仕組みを取り入れ、1869年(明治2年)、商法会所を設立。これが日本で初めての株式会社です。

米を売買して、売り上げ利益を得る会社としての側面。または、お茶を栽培する人、養蚕業を営む人などにお金を貸し付ける銀行の役割。

お金の流れを作り、国を活性化させる。栄一は日本を強くしようと邁進していきました。

(2)大蔵省の官僚となる

栄一が、商法会所を設立した同年、栄一の才能に目を付けた、明治政府の大隈重信から声がかかります。

「あなたの力が必要です」・・一度は断りながらも、重信の熱心な説得に民部省(現在の大蔵省)入りを決意した栄一。

そして、様々な通貨が使用されていたお金を円で統一する、新貨条例などに携わりました。

めきめきと頭角を表していた栄一でしたが、意見の対立などから、僅か2年ほどで大蔵省を去ることとなります。

才能を開花させた渋沢栄一

大政奉還(政権を天皇に返上することで、徳川幕府はなくなり、明治政府へと移行した日本。

徳川慶喜から独立した栄一は、日本を変えようと様々な取り組みを行なっていきました。

大蔵省退職後は、実業家となり、様々な事業を立ち上げていきます。

次回は、実業家としての渋沢栄一について紹介していきましょう。

 
江戸幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還。そして、明治政府が発足。徳川慶喜から独立した栄一は、大隈重信に誘われて大蔵省に入社します。

前回のあらすじ⇒【4】2021年大河ドラマ「青天を衝け」主人公渋沢栄一とはどのような人物?

しかし、僅か2年後に退社。その後、次々と色々な事業に携わっていきました。

今回は、そんな実業家としての渋沢栄一を見ていきましょう。

実業家としての才能を発揮!

大蔵省を辞めた栄一は、実業家として歩み始めます。

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

(1)銀行を設立する。

(2)多くの会社設立に携わる

(1)銀行を設立する。

大蔵省を退職した2ヶ月後、1873年(明治6年)、栄一は日本で初めての銀行、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立栄一が34歳の時でした。

新しい仕組みに戸惑いながらも、幾度となく倒産の危機を乗り越えます。そして、全国を周りながら日本の産業について訴えました。

この原動力が、現在の日本の源となっているのです。

(2)多くの会社設立に携わる

実業家となった栄一は、帝国ホテル、王子製紙、サッポロビールなど、500社以上の会社設立に尽力します。

そして、一橋大学・日本女子大学・早稲田大学・同志社大学などの学校設立にも貢献しました。

更に、経済面だけではなく、医療や福祉関係にも力を入れ、日本の困った人々を救う手助けも行っています。

日本の基盤を造った渋沢栄一

資本主義の父実業家の父と呼ばれるように、栄一は多方面で活躍しました。

70歳を過ぎて、アメリカを訪問。日米関係の親善に務め、その功績から二度もノーベル平和賞にノミネートされています

そんな渋沢栄一の有名なモットーは「論語と算盤」。今の日本があるのは、まさに、栄一が日本を変えようと尽力してくれたおかげですね。

 

 

 

 

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