1585年(天正15年)、豊臣秀吉は土佐国(現在の高知県)の大名、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を倒し、四国統一を果たします。
天下統一まで、後一歩と迫っていました。 同年、秀吉は惣無事令を発令。秀吉の許可なく、大名同士の争いを禁ずると言うものでした。
今回は、秀吉が発令した「惣無事令」について解説していきます。
惣無事令によって強さをアピール
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)関白に就任した豊臣秀吉
(2)九州の島津は服従・関東の北条氏政は切腹
(1)関白に就任した豊臣秀吉
天下統一に着々と手を伸ばしていた秀吉でしたが、そんな秀吉に対抗する武将も数多くいました。
1585年(天正13年)、秀吉は関白に就任。※関白とは、天皇を補佐する役目。 つまり、関白の発言は、天皇の言葉と同じ。
そこを上手く利用した秀吉は、惣無事令を発布し、全国の大名たちを服従させようとしたのです。
(2)九州の島津は服従・関東の北条氏政は切腹
豊臣秀吉が惣無事令を発令したにも関わらず、薩摩の島津氏や、関東の北条氏などは発令を無視して戦を続けていました。
島津氏は豊後の大友宗麟と交戦中でしたが、 宗麟が秀吉に助けを求めたことで話は一変。
秀吉は、島津氏を討つべく何万もの兵士を導入し九州を平定。
さすがの島津軍でも秀吉の大軍には勝てず、秀吉の配下に下りました。
関東の北条氏も、小田原平定により豊臣軍に敗北し、後に北条氏政は切腹。戦国大名としての北条家は滅亡します。
豊臣秀吉の天下統一の足がかりとなる
豊臣秀吉が発令した惣無事令。これを無視したことで、惣無事令に違反したとして島津氏や北条氏は罰せられることとなります。
こうして、九州や関東も秀吉の配下となり、天下統一を果たした豊臣秀吉。
農民出身の秀吉が、ここまでの偉業を成し遂げるとは、誰も考えていなかったでしょう。
惣無事令を発令した事が、天下統一の足がかりになったと言っても過言ではありませんね。