前回のあらすじ⇒(1)大坂の陣はなぜ起きたのか?豊臣と徳川が亀裂した原因について考察!
京都二条城で、豊臣秀頼と対面した徳川家康でしたが、 立派に成長した秀頼に、脅威さえ感じたと言います。
生い先短い自分とは違い、たくましくなった若者は、いずれ徳川幕府を脅かす存在になると直感したのでしょうか。
今回は、大坂の陣に至るまでの経緯についてご紹介します。
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起きる
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)方広寺の再建
(2)梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた文字に反論
方広寺の再建
(画像はイメージです)
秀頼の成長は、後の徳川にとって厄介な存在になると思い始めた家康。
その手始めに、秀吉の代から蓄えられた大坂城の財力に目を付けます。
そして、秀吉供養のため、方広寺の再建を秀頼に提案。
方広寺とは、豊臣秀吉が建築したお寺。
高さ約19メートルの大仏殿は地震により崩壊し、秀吉死後は放置された状態でした。
その他にも出雲大社などの修理をさせるなど、大坂城の軍資金を減らそうと考えます。
梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた文字に反論
方広寺再建の際に設置された梵鐘。
ところが、この梵鐘に刻まれた文字に徳川方が反論。
「国家安康」は、家康の名前を引き裂く呪いの文字。
「君臣豊楽」は、豊臣が君主となり楽しんでいる。
急ぎ、駿府の家康に弁明に行った片桐且元(かたぎりかつもと)でしたが、家康は且元に会おうとしませんでした。
代わりに本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん※家康に仕えていた臨済宗の僧)が且元に謁見。
そして豊臣に対し3箇条を掲示します。
豊臣家が3箇条を拒否!
家康が掲示した3箇条とは・・
1.淀殿が人質となり江戸に入る
2.秀頼が大坂城を退却し、他国に国替えする
3.秀頼が江戸に参勤する
この3つの中からどれか1つの条件をのむこと。
しかし、秀頼と淀殿はこの意向に動ずる気はありませんでした。
こうして、徳川と豊臣の修復は不可能となり、大坂冬の陣の幕開けとなるのです。