「青天を衝け」の登場人物をご紹介! 今回は要潤さん演じる松平春嶽(まつだいらしゅんがく)です。
松平春嶽は、徳川御三卿の出身で、第12代将軍・徳川家慶の従兄弟でもありました。
徳川の血を引くバリバリのサラブレッドだった松平春嶽。
幕末の四賢侯と呼ばれた春嶽は、どのような人物なのでしょうか?
そこで今回は、松平春嶽について紹介していきましょう。
聡明で賢い若年藩主
松平春嶽は、正式の実名は慶永(よしなが)。
生涯、春嶽の名前を最も愛用したそうで、 こちらでも、松平春嶽で統一させていただきます。
徳川御三卿・田安徳川家に生まれる
松平春嶽は、文政11年(1828年)、田安徳川家3代藩主・徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)の8男として江戸城内の田安屋敷にて誕生。
幼名は銀之丞。 田安徳川家は、徳川御三卿(清水家・一橋家)の一つ。
幼少の頃より勉学に励み、大量に紙を消費していたことで、父親から付けられたあだ名が「羊」。
天保9年(1838年)、越前福井藩主・松平斉善(なりよし)が若くして亡くなり、斉善の兄だった徳川家慶らの推薦で急遽養子に入ることになります。
そして、11歳と言う若さで福井藩主に就任しました。
藩の財政を立て直す
当時は、どこの藩も財政難に苦しみ、福井藩も度重なる飢饉などで貧困している状況でした。
そんな様子を目の当たりにした春嶽は、藩の手許金を1000両から500両に減額。
自らの食事も一汁一菜を定め、木綿の安い着物を着て倹約。
人材も旧保守派を解任し、新たな人材を登用するなど藩政改革に乗り出します。
そして、水戸の弘道館に習い「明道館」を創設。 ※明道館は藩校として創設され、橋本左内らが学監(学生の監督をする役目)を務める。
少年藩主としての才覚
現代にしてみれば、まさに小学生の時に藩主となった松平春嶽。
羊の愛称で呼ばれるほど勉強熱心で、とにかく周囲の人間の話を良く聞きました。
そんな利発で聡明な若いお殿様を、家臣たちがしっかりと教育していこうと誓ったのです。
後半へ続きます。
前回のあらすじ⇒(1)青天を衝けキャスト紹介・尊王攘夷に生きた男・藤田東湖についてご紹介!
幕府から謹慎処分を言い渡された徳川斉昭。藤田東湖も、江戸小石川藩邸(現在の東京都文京区)の一室に幽閉されます。
東湖が39歳のときでした。 翌年、小梅村の下屋敷(東京都墨田区向島)に転居。
42歳で水戸城下横竹隈(よこたけくま)の屋敷にて蟄居処分となります。
徳川斉昭の側用人に復帰
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)正気の歌を執筆
(2)海防問題に取り組む
正気の歌を執筆
東湖が幽閉されたのは3畳ほどの狭い小部屋。荷物を置くと、自由に動けるスペースは1畳分ほど。
今のような冷暖房完備もありません。そんな地獄のような幽閉生活を送ることになった東湖。
しかし、東湖はそのような環境の中で執筆を始めます。
そして、完成したのが「正気の歌」でした。
正気の歌は、元々中国南宋の文天祥(ぶんてんしょう)と言う忠臣が書いた漢詩です。
東湖は、自作で「正気の歌」を書き下ろします。
この正気の歌が、後に幕末の志士たちの原動力となっていきました。
海防問題に取り組む
約7年に渡る謹慎処分が解け、自由の身となった東湖は47歳になっていました。
翌年、ペリーが浦賀に来航すると、幕府は斉昭を海防参与に任命し、東湖も海防掛(かいぼうがかり)を命じられます。
※海防掛とは、海岸の防御を目的として設置された江戸幕府の職名 。
嘉永6年(1854年)、斉昭が幕府の参与となり、東湖も側用人に復帰。
そして開国派の井伊直弼らと対立する斉昭に従事し、内政や外政に携わっていきます。
安政の大地震で亡くなる
安政2年(1855年)、江戸の周辺を襲った大地震が発生(安政の大地震)
死者は1万人以上と言われ、東湖も母親をかばい、鴨居の下敷きとなって亡くなりました(享年50歳)
徳川斉昭と共に尊王攘夷を支持し、水戸藩士だけでなく、西郷隆盛や吉田松陰などにも影響を与えたと言われる藤田東湖。
隆盛は、東湖との出会いに感激し文書に残すほどでした。
青天を衝けでは、俳優の渡辺いっけいさんが演じています。
東湖はまさに、水戸学を通じて尊王攘夷を広めた第一人者と言えるでしょう。
徳川慶喜の側用人として仕えた平岡円四郎。慶喜言わく、自分に遠慮がちな家臣はいらない。
自分が間違った行いをすれば、きちんと正してくれる部下がほしい。
こうして、白羽の矢が立ったのが平岡円四郎でした。
今回は徳川慶喜の側近として仕えた平岡円四郎について、前編と後編に分けて紹介していきましょう。
才能がありすぎた平岡円四郎
平岡円四郎は、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)きっての秀才と言われていました。
※昌平坂学問所とは、江戸幕府直轄の教学機関・施設
一橋慶喜の小姓となる
平岡円四郎は、文政5年(1822年)、旗本であった岡本忠次郎の四男として誕生。
そして、天保9年(1838年)同じ旗本の平岡文次郎に養子入りします。
子供の頃から聡明で頭が良かった円四郎。
その当時、一橋家に養子入りしていた一橋慶喜(徳川慶喜)の小姓を探していたところ、藤田東湖(徳川斉昭の側近)らが、円四郎を推薦。
円四郎は32歳にして、慶喜の小姓となりました。
※小姓とは、上司の身の回りの世話をする家臣
青天を衝けの中で、ご飯のよそい方や、髷の結い方などを、慶喜が円四郎に教えていました。
そんな慶喜の人柄に、円四郎が、「惚れた」と口走ってにやけるシーンもありましたね。
小姓と言えば、森蘭丸などのように若年層のイメージが強いですが、実際は円四郎のように、30を過ぎて小姓になるケースもあったようです。
左遷となり甲府へ
一橋慶喜に仕えた平岡円四郎は、慶喜を次期将軍候補とする一橋派として尽力します。
しかし、南紀派であった大老・井伊直弼により徳川慶福(後の徳川家茂)が第14代将軍に決定。
後に安政の大獄により、一橋派の危険人物とみなされた円四郎は、安政6年(1859年)甲府勝手小普請に格下げ。
甲府勝手小申請は、不良旗本・御家人への懲罰処分の一種で、明確な職務(役)は与えられていません。
後半へ続きます。
前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・旗本から幕臣となった平岡円四郎についてご紹介!
安政の大獄により、甲府へと左遷された平岡円四郎。
文久2年(1862年)、慶喜が謹慎を解かれ、第14代将軍・徳川家茂の後見人として復帰。
円四郎も慶喜に伴い江戸に戻りました。 そして、一橋家の家臣として出世街道を歩むこととなります。
渋沢栄一との出会い
一橋慶喜の家臣・平岡円四郎と農民だった渋沢栄一。
ここでは、平岡円四郎と渋沢栄一の関係性についてまとめました。
渋沢栄一をスカウトする
渋沢栄一は当時、尊王攘夷派として、従兄弟の渋沢喜作らと同士を集め、横浜焼き討ちや高崎城乗っ取り計画を企てていました。
江戸でもその名は知られていたようです。 そして円四郎は、部下の川村恵十郎を介して栄一と喜作に対面。
恵十郎の役目は、道場や塾などで有能な人材を発掘し、家臣候補を探すことでした。
円四郎は臆せず物を言う栄一を気に入り、一橋家の家臣として京に来ないかと誘います。
しかし、栄一が「すぐには行けない」と断ると円四郎は、「なら自分の部下として後で来れば良い」と申し付けました。
平岡円四郎が暗殺される
その後、攘夷派が京都から一掃され、栄一も追われる立場となります。
行き場を無くした栄一は、円四郎を頼り、一橋慶喜に仕官することになりました。
こうして栄一も幕臣の道を辿るわけです。 円四郎も出世街道を歩み、一橋家の家老並に就任。
この頃、慶喜は孝明天皇より攘夷を命令されていますが、中々実行に移していませんでした。
これに腹を立てた尊王攘夷派の志士たち。
そして、その矛先が円四郎に向けられます。
そして、元治元年(1864年)、水戸藩士の江畑広光と林忠五郎に襲撃され43歳の若さで亡くなりました。
徳川慶喜から最も信頼された平岡円四郎
徳川慶喜からの信頼も厚く、渋沢栄一を見出した平岡円四郎。
栄一は円四郎のことを「一を聞いて十を知る能力があり、余りにも先回りばかりしすぎた」と評価したそうです。
青天を衝けでは、俳優の堤真二郎さんが演じている平岡円四郎。
徳川慶喜や渋沢栄一との絡みも含めて、とても見どころがありそうですね。
北武蔵の天狗と呼ばれた尾高長七郎。渋沢栄一とは従兄弟同士。
幼少の頃より、神道無念流の剣術を学び、そんな長七郎に栄一も憧れを抱いていました。
やがて江戸に出た長七郎は、幕末の情勢を知り尊王攘夷派として、活動していくことになります。
渋沢栄一に影響を与えた幕末の志士
兄、尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の影響を受け、水戸学の尊王攘夷思想を信仰していた尾高長七郎。
ここでは、下記についてまとめました。
武蔵野国に誕生
天保7年(1836年)、武蔵野国榛沢郡(はんざわぐん)下手計(しもばかて)村にて、尾高勝五郎の次男として誕生。
兄に尾高惇忠、妹に尾高千代、弟に尾高平九郎がいます。渋沢栄一とは従兄弟同士。
体格にも恵まれ、剣術に優れた長七郎は、栄一の憧れであり良き理解者でもありました。
追われる立場になり逃亡
兄の惇忠が家業を継ぐため、長七郎は単身で江戸に向かい儒学や剣術を学びました。
そして、儒学者の大橋 訥庵(おおはしとつあん)の思誠塾(しせいじゅく)に入門します。
文久2年(1862年)、老中の安藤信正が襲撃され た、坂下門外の変が発生。
この計画を企てたのが大橋訥庵でした。 犯行の一身とみなされ、嫌疑をかけられた長七郎は、栄一の手引きにより京都に潜伏。
文久4年(1864年)、同士と江戸に向かっていた長七郎でしたが、通行人を追手と間違えて殺傷してしまい、投獄されてしまいます。
31歳の若さで病没。
惇忠や栄一の訴えも虚しく、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に収監されてしまった尾高長七郎。
明治元年(1868年)の夏に自由の身となりますが、同年11月に病気のため逝去。
長七郎は、渋沢栄一らが実行しようとした高崎城乗っ取りや、横浜焼き討ち計画を阻止。
後に栄一は、そのことについて、今の自分があるのは長七郎のおかげだと感謝しています。
尊王攘夷に命をかけ、31歳の若さで亡くなった尾高長七郎。
青天を衝けでは、俳優の満島真之介さんが演じていらっしゃいます。
こちらの展開もまた楽しみですね。
前回のあらすじ⇨(1)青天を衝けキャスト紹介・橋本左内・安政の大獄で処刑されたその生涯とは?
福井藩主の松平春嶽に仕え、一橋派として徳川慶喜を次期将軍にするため南紀派と対立。
後半は、幕末を生きた福井藩の志士、橋本左内について紹介します。
安政の大獄で処刑される
大老に就任した、南紀派の井伊直弼は、一橋派の面々を次々と弾圧していきました。
ここからは、次の項目についてまとめていきます。
松平春嶽の側近として仕える
後に江戸に出た左内は、西郷隆盛や藤田東湖らと交友します。
やがて左内は、医者ではなく政治家としての野心を抱くようになっていきました。
そして、福井藩主の松平春嶽の側近となり、御書院番に抜擢されます。
※御所院番とは、江戸時代に設けられた、軍事部門の職
安政2年(1855年)、松平春嶽が藩校の「明道館(めいどうかん)を設立。
左内も学監同様心得(教頭のような役職)として、教育を任される立場となりました。
井伊直弼による弾圧
安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼が天皇の勅許なしに日米修好通商条約を締結。
そして、第14代将軍に南紀派の推す、徳川慶福(徳川家茂)が就任します。
この政策に反対する尊王攘夷派や、一橋派の多くが井伊直弼によって弾圧されていきました。
世に言う安政の大獄です。
才能にあふれた若き福井藩士
橋本左内は、一橋派の危険人物とみなされ幕府に捕まり、安政6年(1859年)に処刑されました。享年26歳。
西郷隆盛は、「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」と発言しています。
才能にあふれた橋本左内の早すぎる死は、あまりにも悲しい最期でした。
北武蔵の天狗と呼ばれた尾高長七郎。渋沢栄一とは従兄弟同士。
幼少の頃より、神道無念流の剣術を学び、そんな長七郎に栄一も憧れを抱いていました。
やがて江戸に出た長七郎は、幕末の情勢を知り尊王攘夷派として、活動していくことになります。
渋沢栄一に影響を与えた幕末の志士
兄、尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の影響を受け、水戸学の尊王攘夷思想を信仰していた尾高長七郎。
ここでは、下記についてまとめました。
武蔵野国に誕生
天保7年(1836年)、武蔵野国榛沢郡(はんざわぐん)下手計(しもばかて)村にて、尾高勝五郎の次男として誕生。
兄に尾高惇忠、妹に尾高千代、弟に尾高平九郎がいます。渋沢栄一とは従兄弟同士。
体格にも恵まれ、剣術に優れた長七郎は、栄一の憧れであり良き理解者でもありました。
追われる立場になり逃亡
兄の惇忠が家業を継ぐため、長七郎は単身で江戸に向かい儒学や剣術を学びました。
そして、儒学者の大橋 訥庵(おおはしとつあん)の思誠塾(しせいじゅく)に入門します。
文久2年(1862年)、老中の安藤信正が襲撃され た、坂下門外の変が発生。
この計画を企てたのが大橋訥庵でした。 犯行の一身とみなされ、嫌疑をかけられた長七郎は、栄一の手引きにより京都に潜伏。
文久4年(1864年)、同士と江戸に向かっていた長七郎でしたが、通行人を追手と間違えて殺傷してしまい、投獄されてしまいます。
31歳の若さで病没。
惇忠や栄一の訴えも虚しく、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に収監されてしまった尾高長七郎。
明治元年(1868年)の夏に自由の身となりますが、同年11月に病気のため逝去。
長七郎は、渋沢栄一らが実行しようとした高崎城乗っ取りや、横浜焼き討ち計画を阻止。
後に栄一は、そのことについて、今の自分があるのは長七郎のおかげだと感謝しています。
尊王攘夷に命をかけ、31歳の若さで亡くなった尾高長七郎。
青天を衝けでは、俳優の満島真之介さんが演じていらっしゃいます。
こちらの展開もまた楽しみですね。