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645年に起こった大化の改新!主要人物と事後を解説

大化の改新と言えば、日本の歴史上最も有名な出来事の一つ。645年と言う年号も、語呂合わせで覚えた方が多いのではないでしょうか。

今回ご紹介する蘇我入鹿(そがのいるか)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の二人によって暗殺されました。

飛鳥時代の大きな出来事の一つ、大化の改新に関係した人物を、簡単にまとめていきます。

 

祖父は蘇我馬子(そがのうまこ)

今回は、蘇我入鹿について、下記の項目を簡潔にまとめました。

1.蘇我入鹿とはどんな人物?
2. 山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻める!

1.蘇我入鹿とはどんな人物?

蘇我入鹿の生誕は不明。祖父は蘇我馬子。馬子は豪族の頂点に立つ存在で、聖徳太子と共に政治改革を行いました。

当時の天皇は、第34代舒明天皇(じょめいてんのう)。入鹿は、643年に父の蘇我蝦夷(そがのえにし)から、大臣職を譲られます。

しかし、入鹿は横暴な行動が多く、蝦夷も頭を悩ませていました。

 

2. 山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻める!

やがて、舒明天皇 が亡くなると皇位継承をめぐり、山背大兄王と対立。山背大兄王は聖徳太子の息子であり、有力な皇位継承者でした。

入鹿とは従兄弟同士でありながら、不仲だったと言われています。

入鹿は舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を次期天皇に擁立しようと企て、643年山背大兄王を襲撃。

後に山背大兄王は、自害に追い込まれ亡くなります。 しかし、古人大兄皇子の皇位継承は認められず、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう※舒明天皇の妻)が即位。

入鹿は、やがて天皇を横目に、自ら政権を握るようになっていきました。

乙巳の変(いっしのへん)で暗殺される!

645年、蘇我入鹿の独裁を許さない中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺。

この出来事は乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、入鹿の死によって蘇我氏は滅亡へと追い込まれていきました。

次回は入鹿を暗殺した人物、中大兄王子について解説していきます。

前回は蘇我入鹿(そがのいるか)について説明しました。

前回のあらすじ⇒【1】645年に起こった大化の改新!主要人物についてざっくりと解説

権力を握り政治を仕切る蘇我入鹿。そして、天皇中心の政治を行いたい中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と学友である中臣鎌足(なかとみのかまたり)。二人は協力して、入鹿の暗殺を実行します。

今回は蘇我入鹿を暗殺した一人、中大兄皇子についてまとめました。

天皇家のサラブレッド

ここでは、中大兄王子について下記の項目を説明します。

1.中大兄王子(なかのおおえのおうじ)とはどんな人物?

2.周囲に敵なしの中大兄王子

1.中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とはどんな人物?

中大兄皇子は626年に生誕。後の第38代天智天皇です。父親は、第34代舒明(じょめい)天皇、母親は、第35代皇極(こうぎょく)天皇

まさに天皇家のサラブレッドとして誕生しました。645年、中臣鎌足と共に蘇我入鹿を暗殺し、大化の改新を行った人物として有名です。

2.周囲に敵なしの中大兄皇子

中大兄皇子は、中臣鎌足と手を組み、蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。こうして蘇我氏は滅亡へと追い込まれます。

中大兄王子は天皇を中心とする、新しい改革を進めていきました。これが、大化の改新です。

しかし、大化の改新以後は、自分の家臣を暗殺したり、自分に歯向かう人間を殺すなど、権力を振りかざすようになります。

第38代天智天皇に就任

第37代斉明天皇が亡くなると、中大兄皇子が38代天智天皇に就任。(※斉明天皇は35代皇極天皇が再就任したため、名前を改めた)

余談ですが、妻である額田王(ぬかたのおおきみ)と弟の第40代天武天皇とは三角関係だったなんて話もちらほら。

元々は天武天皇の妻だった額田王を天智天皇が略奪した説もあったとか。いつの時代にもドロドロな関係はあったようですね。

次回は、中臣鎌足について解説していきます。

前回は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)について説明しました。 今回は中大兄皇子と協力し、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した、中臣鎌足(なかとみのかまたり)をご紹介します。

前回のあらすじ⇒【2】645年に起こった大化の改新!主要人物についてざっくりと解説!

中大兄皇子とは学友であり、頭脳明晰だったと言われている鎌足。 そして、中大兄皇子と大化の改新を行った中心メンバーでもあります。

では、中臣鎌足とはどのような人物だったのでしょうか。

 

藤原氏の元祖は中臣鎌足!

ここでは、下記の項目についてまとめました。

1.中臣鎌足とはどんな人物?

2.中大兄皇子との出会い

1.中臣鎌足とはどんな人物?

中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、614年に生誕。中臣家は、代々神や祖先を司る祭祀(さいし)を務める豪族でした。

鎌足は、幼少の頃より南渕請安(みなみぶちじょうあん※学者)の私塾で儒学や兵法を勉強。ちなみに、中大兄皇子や蘇我入鹿も同じ塾で学んでいたそうです。

中国の史書を丸暗記するほど、当時から秀才と言われていた鎌足。そして、成長した鎌足は、天皇の存在を脅かす蘇我入鹿(そがのいるか)に目を付けます。

2.中大兄王子との出会い

藤原鎌足と中大兄皇子は、蹴鞠(けまり)の会を通じて顔見知りに。皇子が鞠を蹴った際にくつが脱げ、そのくつを拾った鎌足が皇子の元へ馳せ参じます。

その時の皇子の態度は素晴らしいものでした。時期天皇はこの方しかいない・・鎌足は、皇子に蘇我入鹿暗殺を持ちかけます。

意気投合した鎌足と皇子は、後に蘇我入鹿を暗殺。こうして、乙巳の変が起こりました。

藤原姓を与えられる

中大兄王子は、668年第38代天智天皇に即位。中臣鎌足は、内臣(うちつおみ)に任命されました。( ※内臣とは、飛鳥時代から平安時代に置かれた役職)

ところが、落馬して背中を強打した鎌足が病床に伏せてしまいます。見舞いに訪れた天智天皇は、鎌足に、大織冠(たいしょっかん※ 冠位の最上位)と藤原の姓を与えました。

鎌足は、その翌日に56歳で逝去。こうして、中臣鎌足は藤原鎌足となり、、藤原氏は代々続く家柄となっていきます。

645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した、乙巳の変(いっしのへん)が起こります。

以後、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、弟である軽皇子(かるのおうじ)に譲位(天皇の位を譲る)し、軽皇子は、第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)に就任。

中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちおさ)の位につきました。

646年、孝徳天皇が改新の詔(かいしんのみことのり)を発令。 その後、日本はどのように変化していったのでしょうか。

改新の詔(かいしんのみことのり)とは?

646年、孝徳天皇により改新の詔が発令されます。※詔とは天皇からの命令や発表など。

ここでは、下記の2項目についてまとめました。

1.公地公民制(こうちこうみんせい)

2.班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

1.公地公民制(こうちこうみんせい)

公地公民制とは、日本にある土地、日本に住んでいる民(人)を天皇のものにすること

以前は、天皇や豪族が土地や民を支配していました。

それを全て天皇が所有することで、中央集権国家(※天皇中心の政治)を目指します。

2.班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

口分田(くぶんでん※耕すための田んぼ)

口分田を戸籍に基づいて、6歳以上の男女に分け与える。(※女子は男子の3分の2の面積)

戸籍は6年に一度改正。そのため、6年に1度しか口分田は与えられない。

本人が亡くなると口分田は国に変換する

面積は、(たん)で計算。1段が360歩(約360歩分歩いた距離)。

男子は2段(720歩)、女子は男子の3分の2(480歩)の割り当てが貰える。

農民には不評だった!

今回ご紹介した、公地公民制と班田収授法。実際は口分田の不足、又は国に変換する仕組みにやる気をなくす民が続出。

そして、後に別の土地制度へと変わっていきました。 次回は税の仕組みなどを紹介していきます。

前回は、公地公民制(こうちこうみんせい)と班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)について紹介しました。

今回は、税の仕組みについて簡単にまとめていきます。 律令国家と呼ばれた奈良時代から平安時代の初め頃、天皇中心の国を造るため、新たな税制度が誕生します。

前回のあらすじ⇒【1】646年に発令された改新の詔•国はどのように変化したのか?

租庸調(そようちょう)の始まり

奈良時代に、新しく造られた税制度を「租庸調」と言います。租庸調は、稲や布、特産品などの物を納めることを言います。

ここでは租庸調について、下記の項目をまとめました。

(1)租とは?

(2)庸とは?

(3)調とは?

(1)租とは?

租とは、班田収授法で与えられた口分田で収穫した稲の2束2把(3%)を地方の役所に納めること

1段につき2足2把(3%)。2段の場合、納める稲は3%×2

口分田は、戸籍を基に6歳以上の男女に与えられる(戸籍は6年に1度改正)

(2)庸とは?

庸とは、都に布を納めること(2尺6寸=約8m)。都まで自分で布を持って行かなければならない

布を納めることが出来ない、又は納めたくない場合は、都で10日間土木作業などをする

これを歳役(さいえき)と言い、どちらかを選択することができる。

(3)調とは?

調とは、自分が住んでいる地域の特産品を都まで持って行くこと

庸と同様に、都まで布や特産品を運ぶ仕組みを 運脚(うんきゃく)と言う

租庸調のまとめ

この時代の移動手段は徒歩。都に近い人は良いとして、遠方に住む人はかなり負担になっていたようです。

そして、庸と調では年齢によって納める税率が違いました。これを課役(かえき)と言います。

次回は、働く義務である労役・兵役について紹介していきましょう。
【2】646年に発令された改新の詔•租庸調とはどのような税制度?では、租庸調(そようちょう)について説明しました。

前回のあらすじ⇒【2】646年に発令された改新の詔•租庸調とはどのような税制度?

簡単なまとめ、租庸調は稲や布、特産品なとの物を納めること。

今回は、労役(ろうえき)兵役(へいえき)と言った、働くことで課せられる税について紹介します。

働くことで課せられる税制度

租庸調は、布などの物品を税として納める税制度。庸は、歳役(さいえき※都で10日間働く)との選択肢がある。

ここでは、働くことで課せられる労役、兵役について下記をまとめました。

(1)労役(ろうえき)とは?

(2)兵役(へいえき)とは?

(1)労役(ろうえき)とは?

労役は、働くことで課せられる税のこと。そして、国衙(こくが※地方の役所)で、年間60日以下、土木作業などをして働くことを雑徭(ぞうよう)と言います。

歳役も労役に分けられますが、こちらは都で10日間土木作業をすることでした。

(2)兵役(へいえき)とは?

兵役とは、国衙や、都で警備をすることです。

これを3項目にまとめました。

1.軍団

軍団は、国司(こくし※国衙に勤務する役人)の元で10日間警備をする

2.衛士(えじ)

衛士は、都で1年間警備をする

3.防人(さきもり)

防人は、九州で3年間警備をする。

労役・兵役についてのまとめ

労役は、労働して課せられる税。例えて言うなら、税金を納める変わりにただで働くことです。
兵役は、地方や都で警備をすること。

そして、庸、調、雑傜を合わせて課役(かえき)と呼びます。

課役は、年齢によって納める、又は働く日数に違いがありました。
次回は、課役の納める税が、年齢によってどう違うのかを見ていきましょう。

 

 
【3】では、労役(ろうえき)と兵役(へいえき)について説明しました。

前回のあらすじ⇨ 【3】646年に発令された改新の詔•働くことで納める税の仕組みとは?

労役、兵役、雑傜(ぞうよう)を合わせ、課役(かえき)と言います。課役は年齢により納める量や、働く日数が違いました。

今回は、その違いについてご紹介します。

働き盛りの男子が大変!

課役は年齢によって納める税が変わり、しかも男子のみに課せられるものでした。

女子が納めるのは、租のみです。

ここでは、下記について説明します。

(1)納める税は年齢で変わる

(2)女子は租だけを納める!

(1)納める税は年齢で変わる

こちらでは、男子を年齢別にまとめました。

正丁(せいてい)

21歳〜60歳 ★税は全て納めなければならない。

中男(少丁しょうてい)

17歳〜20歳 ★正丁の納める税の4分の1

老丁(ろうてい)

61歳〜65歳★正丁の納める税の2分の1

(2)女子は租だけを納める!

男子、特に正丁が税を全て納めなければならないのに対し、女子の負担は租のみ。

そのため偽籍(ぎせき※戸籍を偽る)をして、男子を女子で登録する者が多くいました。

課役についてのまとめ

上記で書いたように、男子は正丁になると納める税が増えました。

都に行く旅費や食料も全て自費。そのため、途中で逃亡したり、飢えで亡くなる男子もいたそうです。

偽籍は悪いことですが、正丁男子の負担が多すぎるのも問題ですね。

 

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