1581年(天正9年)2月28日、織田信長による京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)が行なわれました。
御馬揃えとは、大規模な軍事パレードのこと。この御馬揃えは、派手な出立ちやパフォーマンスで、約20万人もの人々を魅了したそうです。
そこで今回は、織田信長が行った京都御馬揃えについてご紹介します。
京都御馬揃えを開催した目的は?
ここでは、下記の2項目についてまとめました。
(1)正月には馬揃えの序奏も開催
(2)圧倒的なパフォーマンス
(1)正月には馬揃えの序奏も開催
1581年(天正9年)の正月、信長の馬廻衆やその一門たちは、派手な身なりで囃子や爆竹などを鳴らし、京の町に繰り出しました。
これに京の人々は大喜び。しかし、これは後に行う御馬揃えの序奏に過ぎず、2月28日に開催する旨をを朝廷に報告。
信長は、天下統一を目前にし、自らの力を朝廷や、当時まだ征夷大将軍の地位にあった、足利義昭らに見せつけるためであったとも言われています。
(2)圧倒的なパフォーマンス
1581年(天正9年)2月28日、明智光秀が統括となり、京都御馬揃えが催されます。
午前8時、本能寺をスタート。約6万人もの行列が、幟(のぼり)や旗を指し、優雅な陣羽織をまとって見物客の目を引きました。
先頭は丹羽長秀隊が務め、最後は織田信長隊で締めくくられます。
信長は豪華絢爛な衣装で自らを飾り、パレードのラストを全うしたのです。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)も見学
織田信長が、開催した京都御馬揃え。その目的とはいったい何だったのでしょうか?
通説では、帝(正親町天皇)に譲位させるための圧力などと言われています。 ※譲位とは天皇の座を退くこと。
しかし、この意見には否定説も多く、お馬揃えは正親町天皇が自ら要望したとの見方があるのも事実。
最近では、本能寺の変の黒幕説も囁かれる正親町天皇。
ギクシャクした関係に見える両者ですが、このお馬揃えを見る限り、良好な関係が築けているようにも見えますね。
どちらにせよ、正親町天皇にとっても信長はお金を献金してくれる大事な存在。
敵にまわすことは、難しかったのかもしれません。